第7回 テレビ登場と映画

*注釈*
※1『十戒』

1956年(日本では1958年)に公開されたアメリカ映画。監督はセシル・B・デミル。チャールトン・ヘストン、ユル・ブリンナー出演。デミル監督自身が1923年に監督したサイレント映画を巨額の製作費でリメイクしたスペクタクル史劇の超大作。旧約聖書のエジプト記に描かれた、聖者モーゼの物語。海が割れ、その中をモーセ一行が進むクライマックスシーンのSFXが話題となった。


※2『ベン・ハー』

1959年(日本では1960年)に公開されたアメリカ映画。監督はカール・タンバーグ。チャールストン・ヘストン、ジャック・ホーキンス出演。紀元1世紀のローマ帝国を舞台に、エルサレムの豪族の息子・ベン・ハーがたどる数奇な運命を描いたスペクタクル大作。同年アカデミー賞にて11部門を獲得。この記録は『タイタニック』、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』がタイ記録を樹立するも破られていない。


※3プロレス中継「シャープ兄弟対力道山・木村政彦」戦

1954年02月19日に日本プロレスリング協会が興行した初の国際プロレス試合。東京・蔵前国技館で行われ、NHKテレビと日本テレビが生中継した。東京の有楽町日劇前や新橋西口広場などの街頭テレビの前は黒山の人だかり、力道山が繰り出す空手チョップに歓声がわき起こった。このプロレス巡業は福岡、大阪、名古屋など10カ所14試合が組まれ、全国にプロレスブームを巻き起こした。


※4大島渚(1932年〜 )

1954年京都大学卒業後、松竹に入社。大船撮影所の助監督を経て1959年に『愛と希望の街』で監督デビュー後、『青春残酷物語』(1960年)、『太陽の墓場』(1960年)などのヒット作で松竹ヌーベルバーグの旗手となる。1961年、松竹退社後はテレビドキュメンタリーにも活躍の場を広げ、政治的・ジャーナリスティックな作品を手がけた。代表作に『愛のコリーダ』(1976年)、『戦場のメリークリスマス』(1983年)など。


※5篠田正浩(1931年〜 )

1960年に『恋の片道切符』で松竹から監督デビュー。松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」の旗手として注目を集める。1965年に松竹を退社した後は独立プロへ活動の場を移して『心中天網島』(1969年)、『沈黙』(1971年)などの作品で新しい時代の日本映画をリード。その他の代表作に『瀬戸内少年野球団』(1984年)、『少年時代』(1990年)、『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』(1997年)など。


※6吉田喜重(1933年〜 )

1955年、松竹大船撮影所に入社。木下惠介などの助監督を経て、1960年に『ろくでなし』で監督デビュー。大島渚、篠田正浩らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手と呼ばれ活躍。1964年に女優の岡田茉莉子と結婚。1966年に独立プロの「現代映画社」を設立する。1973年の『戒厳令』の後映画界を離れ、テレビドキュメンタリーを数多く制作する。主な代表作に、『秋津温泉』(1962年)、『エロス+虐殺』(1970年)など。


※7『青春残酷物語』

1960年に松竹から公開された青春映画。監督は大島渚。桑野みゆき、 川津祐介出演。 女子高生・真琴と、彼女が中年の男にホテルに連れ込まれそうになるのを助けた清の激しい青春の物語を綴る。過激な描写が松竹ヌーヴェル・バーグという言葉を生み出した、エネルギー溢れる問題作。


※8ヌーヴェル・ヴァーグ

1950年〜60年代のフランスで起きた「新しい波」を意味する映画運動。二つの系統があったと言われ、一つは映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』で映画批評家として活躍し、助監督等の下積み経験無しにデビューしたジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーなどの若い作家およびその作品。もう一つは、モンパルナス界隈で集っていたアラン・レネ、ジャック・ドゥミなどの主にドキュメンタリーを出自とする面々で、この両派を合わせてヌーヴェルヴァーグと総称することが多い。ヌーヴェル・ヴァーグの主な作品に、ルイ・マルの『死刑台のエレベーター』(1957)、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960)などが挙げられる。


※9山田洋次(1931年〜 )

1954年に助監督として松竹入社。1961年『二階の他人』で監督デビュー。1969年『男はつらいよ』シリーズ開始。、評論家や文化人の支持も高く、現役でもっとも多くキネマ旬報ベストテンに入賞した監督。代表作に『家族』(1970年)、『同胞』(1975年)、『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)、『たそがれ清兵衛』(2002年)など。


※10渥美清(1928年〜1996年)

浅草軽演劇のコメディアンとして活躍した後、テレビのバラエティやドラマに出演し、1958年頃から映画にも進出。1969年にスタートした『男はつらいよ』シリーズでは主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。その他の主演映画に『ブワナ・トシの詩』(1969年)、『あゝ声なき友』(1972年)などがある。

※11「男はつらいよ」シリーズ

松竹によって1969年から1995年までに渥美清主演、山田洋次原作・監督で全48作製作された映画シリーズ。(1968年〜1969年にはテレビドラマとして放送されていた。)テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の葛飾柴又に戻ってきては大騒動を起こす人情喜劇。毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも成就しない寅次郎の恋愛模様を、日本各地の美しい風景を背景に描く。主人公の名前から、作品自体も「寅さん」と呼ばれることが多い。


※12「駅前」シリーズ

1958年から1969年までに東宝系で製作された喜劇映画のシリーズ。森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺の三人が主演で24作品が製作された。社長シリーズ、若大将シリーズ、クレージー映画などとともに1960年代の東宝の屋台骨を支えた大ヒットシリーズ。駅前という日本の高度経済成長期の象徴的場所を舞台に繰り広げる人情喜劇。シリーズを通した設定があるわけではなく、三人の出演者とタイトルに「駅前」が冠されていることくらいの共通性しかないゆるい設定だった。


※13「無責任」シリーズ

クレージー映画(クレージーえいが)と呼ばれる1962年から71年にかけて製作された、植木等や谷啓などのクレージーキャッツのメンバーが主演したコメディシリーズの一つ。「無責任」シリーズのほか、「日本一」シリーズ、「クレージー作戦」シリーズなどがある。主人公の軽妙なキャラクターと荒唐無稽なストーリーが受け、東宝のドル箱シリーズとなった。また、このシリーズで使われた「ハイ、それまでョ」、「スーダラ節」など数々のコミックソングがヒットした。


※14「若大将」シリーズ

東宝が1961年から1971年まで製作し、全17作から構成される加山雄三主演の喜劇映画のシリーズ。シリーズのパターンは一貫していて、若大将がマドンナと何かのきっかけで出会い、恋に落ちる。青大将が邪魔をしたり、若大将が女の子にもてているのをマドンナが嫉妬したり2人の仲にひびが入る。しかし最終的には仲直りして、スポーツの大会でも若大将の活躍で優勝してハッピーエンドとなる(社会人編の場合は交渉などが成功する)、という展開。


※15「座頭市」シリーズ

1962年〜1989年まで全26本が製作され、勝新太郎の人気を決定づけたロング・シリーズ。第1作〜第3作までは、まだアウトロー然としていた座頭市の出生に関する様々なしがらみが描かれる。第4作以降は正式なシリーズとなり、座頭市が逗留する宿場の悪親分や悪代官をやっつけ、最後に用心棒と対決するというパターンができ上がった。作風はバイオレンス色の濃い娯楽時代劇であるが、同時に、勧善懲悪という単調な枠では括れない「人情」や「人間の業(ごう)」を描いた脚本が多くの人々を魅了した。


16「眠狂四郎」シリーズ

東宝が鶴田浩二主演で1957年〜58年にかけて3本、大映が市川雷蔵で1963年〜69年にかけて12本と雪蔵の死後、1969年に松方弘樹主演で2本、映画化された。時は11代将軍・徳川家斉の治下。浪人・眠狂四郎は転びバテレン(キリシタン)と日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てる残虐性を持つ。その生い立ちを背負い、虚無感を持ちつつ「円月殺法」という剣術を用いて無敵の活躍をし、以後剣豪ブームを巻き起こした。エロチシズムと猟奇あふれる娯楽時代劇。


※17小林旭(1937年〜 )

子役を経て第3期日活ニューフェイスに合格。1956年『餓える魂』で本格デビュー。『南国土佐を後にして』(1959年)で脚光を浴び、その後「渡り鳥」シリーズ、「旋風児」シリーズに主演。石原裕次郎らと共に日活の黄金時代を築く。1972年に東映入り。1973年から「仁義なき戦い」シリーズに出演。1978年には『多羅尾伴内』のリメイク作に主演した。「昔の名前で出ています」などのヒット曲でNHK紅白歌合戦にも出場している。


※18『夜霧よ今夜も有難う』

1967年に公開された日活映画。監督は江崎実生。石原裕次郎、浅丘ルリ子出演。不慮の事故で引き裂かれた裕次郎と浅丘ルリ子が4年振りに偶然の再会を果たす。女を忘れられずにいた男、だが女は人妻になっていた。初めは反発していたが、やがて二人の愛は復活する。「ぼくたちは千五百回の昼と夜を取り戻した」のセリフが有名なムード・アクションの決定版。


※19『キューポラのある街』

1962年公開の日活映画。監督は浦山桐郎。吉永小百合、浜田光夫出演。鋳物の街、川口市を舞台に、貧困・失業・差別などの社会問題を提起しながらも、貧しさにもめげず力強く生きる若者たちを描いた青春映画。明朗な少女に扮した吉永小百合は当時17歳。ブルーリボン女優主演賞を史上最年少で受賞。


※20吉永小百合(1945年〜 )』

1960年、日活に入社。同年、『ガラスの中の少女』で初主演。『キューポラのある街』(1962年)でトップアイドルとなり、そのファンを「サユリスト」と呼称されるようになる。1963年以降は『青い山脈』(1963年)や大ヒット作となった『愛と死をみつめて』(1964年)、『伊豆の踊子』(1963年)などの文芸路線の代表作が数多く作られる。その他の主演作に『おはん』(1984年)、『長崎ぶらぶら節』(2000年)、『北の零年』(2005年)など。


※21高倉健(1931年〜 )

1955年、東映に入社。1956年『電光空手打ち』でデビュー。『日本侠客伝』(1964年)、『網走番外地』『昭和残狭伝』(ともに1965年)シリーズがスタートし、ストイックな“健さん”のイメージが確立。鶴田浩二とともに東映任侠映画を支えた。その後も『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』(ともに1977年)、『南極物語』(1983年)、『鉄道員』(1999年)など日本のトップ俳優の地位を確保した。


※22鶴田浩二(1924年〜1987年)

1948年、松竹に入社。長谷川一夫主演の『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年、『フランチェスカの鐘』で初主演。1950年代には甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離して第1位になる。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなる。1960年に東映に移籍。1963年、『人生劇場 飛車角』に主演し大ヒット。ここから任侠映画ブームが始まる。鶴田も任侠路線のトップスターとして高倉健とともに多くのやくざ映画に出演した。


※23藤純子(1945年〜 )

父・俊藤浩滋 の勤務先である東映京都撮影所に見学に行ったところをマキノ雅弘監督にスカウトされ1963年に『八州遊侠伝 男の盃』で映画デビュー。1968年、山下耕作監督の『緋牡丹博徒』で初主演と主題歌も歌い、ヒット。続けて「日本女侠伝」シリーズ、「女渡世人」シリーズもヒットし、東映スターの仲間入りをした。1972年、『関東緋桜一家』を最後に引退するが、1989年、富司 純子(ふじ すみこ)と改名し、『あ・うん』で映画への出演を再開。


※24石井輝男(1924年〜2005年)

1939年、東宝へ撮影助手として入社。1946年に新東宝に参加。1957年、『リングの王者 栄光の世界』で監督デビュー。1961年に東映に移り、東映第1作『花と嵐とギャング』を製作。1965年、『網走番外地』(高倉健主演)を公開し大ヒット。高倉とのコンビでシリーズ10作を世に送り出し、東映のヒットメーカーの一人となった。


※25深作欣二(1930年〜2003年)

1953年に東映へ入社。1961年、千葉真一の初主演作品となる『風来坊探偵 赤い谷の惨劇』で監督デビュー。1973年から公開された「仁義なき戦い」シリーズは、邦画史に残るヒットを記録し、実録映画の第一人者の地位を不動のものとする。暴力的な作品を撮る映画監督というイメージが強いが、本人が戦争という巨大な暴力を体験したことをきっかけに、“暴力を描くことで暴力を否定しよう”という考えが根底にあえる。その他の代表作に、『柳生一族の陰謀』(1978年)、『魔界転生』(1981年)、『蒲田行進曲』(1982年)、『バトル・ロワイアル』(2000年他)などがある。


※26NHK朝の連続テレビ小説

NHKが1961年から放映を開始し、現在まで続くテレビドラマのシリーズ。通称「朝ドラ」。“逆境に負けず、たくましく生きる女性”を主人公にした作品が主流。かつては太平洋戦争と戦後の動乱期を乗り越えた女性の半生記・一代記が多かったものの、時代とともに変化し、このような作品は徐々に少なくなった。代わって女性の社会進出を背景に、1970年代半ば以降、様々な職業を目指したり、それに就いたりするヒロインの奮闘記が多くなった。


※27「ひょっこりひょうたん島」

1964年〜1969年にNHK総合テレビで放送された人形劇。原作は井上ひさし、山元護久。ひょうたん島に子供たちとサンデー先生が遠足に行ったところひょうたん火山の噴火活動の結果、島が流れ出してしまう。ドン・ガバチョ大統領、海賊トラヒゲ、サンデー先生、博士など個性豊かな登場人物の波乱万丈の冒険は日本中の子供たちをテレビの前に釘づけにしたばかりでなく、大人からも圧倒的な支持を得た。

※28「上を向いて歩こう」

1961年に発売された坂本九の大ヒット曲。作詞は永六輔、作曲は中村八大。別名:スキヤキ、SUKIYAKI)。NHKで放送されていたテレビ番組「夢であいましょう」の、1961年10月・11月の「今月のうた」として発表され、同年10月にレコードが発売されると爆発的なヒットとなった。ビルボード(Billboard)誌では、1963年6月15日に、週間ランキング第1位を獲得。ビルボード誌1963年年間ランキングでは、第10位。後に数多くのアーティストによってカバーされている。坂本逝去のメモリアルソングとしてもよく用いられる。


※29「こんにちは赤ちゃん」

1963年に発売された梓みちよの歌謡曲。作詞:永六輔、作曲:中村八大。1963年7月6日、NHKテレビの人気番組「夢であいましょう」の今月の歌コーナーにて紹介された。本曲は作曲者・中村の第一子生誕をヒントに永が作詞した作品で、永がパパの心情を歌詞にして、中村にプレゼントした曲だったが、歌手が女性であることなどから、ママの心情に置き換えられた。

※30夢であいましょう

NHKのバラエティ番組。1961年4月8日から1966年4月2日にかけ、毎週火曜日(のち土曜日)夜10時台に生放送された。作・構成に永六輔と大倉徹也、音楽は中村八大と八城一夫が担当。番組には毎回ごとのテーマが設けられて、これに沿ったショートコントで進行し、その合間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などが挿入された。歌手のコント出演や、コメディアンの歌唱などの企画は、後続のバラエティーショー番組の原型となった。日本のテレビジョン放送の黎明期における代表的なバラエティ番組の一つ。

※31岡本喜八(1924年〜2005年)

1943年に東宝に入社し助監督となる。1958年、『結婚のすべて』で初メガホンを取る。日中戦争最中の中国大陸に西部劇や推理劇の要素を取り入れた5作目『独立愚連隊』(1959年)で、一躍若手監督の有望格として注目を浴び、以降、『江分利満氏の優雅な生活』(1963年)、『日本のいちばん長い日』(1967年)、『肉弾』(1968年)など、幅広い分野の作品を監督した。三船敏郎、小林桂樹らスター俳優に加え、中谷一郎、田中邦衛、岸部一徳など脇を固める個性派男優を再三起用し、彼らは「喜八一家」、「喜八ファミリー」と呼ばれた。

※32今村昌平(1926年〜2006年)

1951年、松竹大船撮影所に入社。その後1954年に日活に移籍。『豚と軍艦』(1961年)、『にっぽん昆虫記』(1963年)、『赤い殺意』(1964年)などで監督として世間に認められるも、企画がまったく受け入れられなかった時期を過ごす。1983年、起死回生の『楢山節考』を発表。本作と『うなぎ』(1997年)で、日本人では初めてカンヌ国際映画祭で2度最高賞(パルム・ドール)を受賞するという快挙を成し遂げた。1975年、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を開校し、校長・理事長を務めた。

※33にっかつロマンポルノ

1971〜1988年に日活(1978年に社名変更し、にっかつ)で製作された成人映画。1971年11月にスタートし、『団地妻 昼下りの情事』と、『色暦大奥秘話』が第1作。その後、白川和子、山口美也子、東てる美、美保純ら多くのスターが生れた。また、自身の作家性を遺憾なく発揮できる場であり、映画会社として若手監督の育成に努めてきた場であったため、ロマンポルノから出発した若手監督も多く、崔洋一、周防正行、相米慎二、滝田洋二郎、中原俊、森田芳光などがいる。

※34スター・システム

スターシステムはスター中心の映画制作をさす。作品の企画から脚本や演出まで全てスターに従属し、スターがヒット作を繰り返し模倣するために存在した。特に戦前の日本映画、時代劇映画におけるスターシステムは、歌舞伎のスターシステムをそのまま受け継いだもの。撮影現場でスターは監督以上の権力を持ち、スターの意思で全てが決まることが多かった。戦後のスターシステムの映画も自社の専属スターの個性に合わせて映画制作がなされた。とりわけ片岡千恵蔵、市川右太衛門の両御大と言われる重役スターがいた1950年代の東映はスターシステムが強力だったと言われる。

※35『宇宙戦艦ヤマト』

1974年に放送されたテレビアニメを再編集し、1977年に劇場公開されたアニメーション映画作品。監督 は松本零士。 戦争としての戦闘の描写、その中で繰り広げられる人間ドラマと主人公の成長、詳細な設定やSF的ガジェットの導入など、放映当時(1970年代)のアニメーション作品としては斬新な試みが取り入れられた。テレビ放送当初は同時間帯に放送されていた「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」などの影響もあり視聴率低迷のため打ち切られたが、再放送などで改めて注目され、劇場映画が公開される頃には社会現象とも言える大ブームとなった。その後の「銀河鉄道999」「機動戦士ガンダム」「新世紀エヴァンゲリオン」などのアニメブームの先駆け的存在。

※36『銀河鉄道999』

松本零士原作の同名TVシリーズを母体に、新たに劇場用映画に構成したもの。1979年公開。監督はりんたろう。製作した東映動画は設立以来、親会社の東映の下で劇場アニメ映画の製作をしていたが、本作が東映動画にとっての初の自社製作の劇場映画となる。1979年度の邦画配収第1位。ゴダイゴが歌う、この作品の主題歌も大ヒットした。全宇宙を覆う機械人間の猛威のさなか、殺された愛する父、母の復讐を遂げ、機械人間の絶滅を果たす少年の冒険を描くアニメーション。市川崑が監修として参加している。

※37角川映画

角川書店社長の角川春樹が映画製作に乗り出したことが始まり。映画第1作は『犬神家の一族』(1976年)。映画のテレビCMはあまり流されていなかった時代に、前代未聞の広告費をつぎ込み大規模な宣伝をうち、書籍と映画を同時に売り込んで大成功を収める。映画製作を目的とした角川春樹事務所も1976年に設立。翌年には第2作『人間の証明』(1977年)の宣伝のキャッチコピーとなった「読んでから見るか、見てから読むか」「母さん、ぼくのあの帽子、どこへ行ったんでしょうね」は流行語にもなった。テレビCMによる大量宣伝で、映画と出版による相乗効果のメディアミックスは、角川商法と呼ばれ、横溝正史に続いて森村誠一、大藪春彦、赤川次郎作品などを次々と映画化された。また、薬師丸ひろ子・渡辺典子・原田知世の3人は角川3人娘と呼ばれ、『セーラー服と機関銃』(1981年)、『時をかける少女』(1983年)などのアイドル映画に出演し、スクリーンでしか見られなかったかつての映画スターと同様の存在となり、若い観客を映画館へ呼び戻した。

※38メディアミックス

日本においては、角川書店が1970年代において、自社発行書籍(小説作品)の映画化を行い、その原作作品を売り込むことにより業績を伸ばした事で注目された広告手法で、これを日本のメディアミックス商業展開の代表的な成功例とする場合が多い。近年は、元々一つのメディアでしか表現されていなかった作品(原作)を、小説、漫画、アニメ、ゲーム(コンピュータゲーム)、音楽CD、テレビドラマ、映画、タレント、トレーディングカード、プラモデルなど、複数メディアを通じて展開するビジネスモデルを指して、メディアミックスと呼ばれるのが一般的となった。その例として、国内で最も多種の展開がされているキャラクターの一つである「アンパンマン」や、「スター・ウォーズ」シリーズ、「新世紀エヴァンゲリオン」などが挙げられる。

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