第7回 テレビの登場と映画

 昭和30年代に入り盛岡の映画産業は世界のそれと同じく、爛熟期を迎えます。昭和34年(1959年)4月に中劇に手公開された『十戒』※1は39日間で34,423人の観客を動員し、この記録は同じ日数での記録としては長きに渡って破られていません。同じく昭和36年(1961年)3月封切の『ベン・ハー』※2も中劇で6週間のロング・ランを打ち、さきの『十戒』に次ぐ観客を動員しました。戦前は盆暮の短期興行を除いては、一週間興行が原則だったため、このように長期間上映されることがまだ珍しい時代でした。現在のように数週間(時には数ヶ月)も上映することは、映画の興行史において、大きな変化の一つと言えます。その後、映画斜陽の時代の流れの中で閉館する劇場の出始めるなか、昭和44年(1969年)に盛岡ピカデリーが開館しています。


 全国的なデータからみると、日本の映画産業は昭和35年(1960年)に製作本数で年間547本を記録しピークを迎えましたが、観客数は昭和33年(1958年)をピークに減少傾向にありました。その一番の要因はテレビの普及にありました。NHKが東京地区でテレビの本格放送を開始した昭和28年(1953年)は、戦争の記憶と戦後の混乱の名残りがあり、人々の生活はまだまだ苦しい時代でした。テレビ放送開始当初は、“すべての視聴者に楽しんでもらえるメディア”であることと、テレビそのものの普及を目的とされていたため、東京・新橋駅西口や浅草観音の境内などに「街頭テレビ」も設置され、多くの観客がテレビの前に集まりました。なかでもNHKと日本テレビが中継した“プロレス中継「シャープ兄弟対力道山・木村政彦」”戦※3を見るために新橋駅前に集った人々は2万人を超えたとも言われます。その後、昭和34年(1959年)の皇太子殿下のご成婚や昭和39年(1964年)の東京オリンピックを機にテレビが急激に普及しました。

 このような時代の流れの中で、松竹は大島渚監督※4篠田正浩監督※5吉田喜重監督※6らの新人を抜擢して映画を製作します。大島監督の『青春残酷物語』※7のヒットで、マスコミはフランスのヌーヴェル・ヴァーグ※8にちなんで、“松竹ヌーヴェル・ヴァーグ”と呼びましたが、その後の興行的成果は上らず次第に終息していきました。その後、1969年から山田洋次監督※9渥美清※10のコンビで「男はつらいよ」シリーズ※11をスタートさせます。 サラリーマン喜劇が好調だった東宝では、森繁久弥らの「駅前」シリーズ※12、植木等とクレージーキャッツの「無責任」シリーズ※13、加山雄三の「若大将」シリーズ※14など、高度経済成長時代の波にのった作品を作りました。 大映は勝新太郎の「座頭市」シリーズ※15や市川雷蔵の「眠狂四郎」シリーズ※16など新たなスター映画が主軸となります。また、日活では、小林旭※17主演の荒唐無稽なアクション映画や、石原裕次郎主演の『夜霧よ今夜も有難う』※18に代表されるムード・アクションのほか、『キューポラのある街』※19で人気を博した吉永小百合※20らの純情路線スターを売り出しました。 時代劇の東映も現代劇を活性化し、高倉健※21鶴田浩二※22藤純子※23主演の任侠映画ややくざ映画のヒットで仁侠物ブームを作り、新東宝から移籍した石井輝男監督※24深作欣二監督※25が才能を発揮しましたが、時代劇は衰退へと向かっていきました。

 各社特色を出したシリーズもので奮闘するもテレビの影響は色濃く、NHK朝の連続テレビ小説※26に代表されるホームドラマや「ひょっこりひょうたん島」※27などの子供番組、「上を向いて歩こう」(坂本九)※28「こんにちは赤ちゃん」(梓みちよ)※29などの大ヒット曲を生んだ「夢であいましょう」※30に代表されるミュージックバラエティーが人気を博し、子供や女性客の多くが映画館から離れていく傾向にありました。徐々に映画産業に翳りが見え隠れするようになり、1961年に新東宝が製作停止、日活は1969年に撮影所を売却、1971年に製作停止、大映も1971年に倒産しており、その他の映画会社においても決して好調とは言い難い状況にある一方で、東宝の岡本喜八監督※31や日活の今村昌平監督※32など個性的で多種多様な監督が新人として登場した時代でもありました。

 1970年代も日本映画の集客力の凋落は止まらず、1971年に公開された367本のうち、大手5社の占める割合が約4割に激減しました。日活が製作停止を決めた後も日活に残った映画人は低予算のポルノ映画を作り始めます。これらはピンク映画より数倍の制作費をかけてスタジオで撮影した良質な成人映画で、「にっかつロマンポルノ」※33のブランド名を持ちました。かつて大映や日活に籍を置いていたスターは他社やテレビ業界に移ったことを機に、映画業界全体でも70年代半ばには俳優の専属制は消滅し、スター・システム※34が崩壊します。その結果、俳優は製作会社への所属から作品ごとの契約へと切り替わり、現在に至ります。

 さらに、1970年代の特徴として、アニメーションやドキュメンタリーの分野が発展し、後の礎を築いたこともあげられます。1977年に公開された『宇宙戦艦ヤマト』※35が中高生層に爆発的にヒットし、では日本映画で初といわれる徹夜組が出たと言われています。この作品のヒットにより、テレビで夕方の子供向けの時間帯に放送されていたアニメ―ション映画が劇場に進出するようになり、小中学校の春休みや夏休みの季節には方が専門館はアニメ映画で埋め尽くされそうにまでなりました。その後、1979年公開の『銀河鉄道999』※36はその年の邦画配収第一位となり、アニメ映画史上初の快挙となりました。

 そして、1970年代後半に華々しく独立プロ活動を始めたのが角川映画※37です。自前のスタッフも俳優も持たない角川は、大手の貸しスタジオやスタッフ、自由契約の俳優を使って、原作本や主題歌を売りながら継続的に大作主義的な映画や、娯楽活劇、アイドル映画などの製作を手掛け、これを機にメディアミックス※38時代の幕開けとなりました。


 テレビが登場したことによって、映画業界に斜陽の影が見え始めた時代でしたが、書籍を映画化しテレビコマーシャルを利用して大々的に販売するといった角川が始めたメディアミックス戦略やテレビアニメの映画化など、テレビと映画の共存体制が徐々に構築されはじめた時代でもありました。



=参考文献=
佐藤忠男著「日本映画史増補版3」(岩波書店)
盛内政志著「盛岡映画今昔」(地方公論社)
東宝株式会社発行「東宝75年のあゆみ」
キネマ旬報映画総合研究所編「映画検定 公式テキストブック改訂版」(株式会社キネマ旬報社)

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