第5回 戦時下での映画

 昭和14年(1939年)に公布された映画法によって、日本の映画は政府の統制下に置かれることとなります。映画製作者・配給社は政府の許可制となり、製作はシナリオの段階で事前検閲を受け、さらに完成作品も検閲を受けました。シナリオの段階で好ましくない企画だと判断されれば撮影すること自体許されませんでした。

 昭和16年(1941年)になると時局はさらに緊迫します。同年12月8日の真珠湾攻撃をもって太平洋戦争が開戦。新聞、ラジオ等の報道にも規制が入り、アメリカの映画会社の日本支社には閉鎖命令が下されます。映画用生フィルムも軍需品として自由に使うことができなくなりました。さらに当時、映画製作は日活、松竹、東宝、新興、大都、そして系列下のプロダクション数社という状態でしたが、新興、日活(製作部門)、大都を合併させた大日本映画製作株式会社(略称:大映)が発足し、日本の映画製作会社は松竹、東宝、大映の三系統に統合させられます。一方で配給部門も社団法人映画配給社に統合され、全国の映画館は紅白二系統がそれぞれ二週で一本の公開となり、物資・電力維持のため上映回数も制限されました。この頃の映画は、『ハワイ・マレー沖海戦』※1をはじめとする戦争映画のほか、精神性が強められるような『宮本武蔵』四部作※2などのチャンバラ映画、『暖流』※3『無法松の一生』※4などの人間ドラマ、そしてニュース映画※5などが主に作られました。黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』※6も戦時下に公開された映画の一つです。

 戦況の悪化とともに演劇劇場や映画館の廃業も相次ぎました。昭和19年(1944年)に学童疎開が始まり、翌昭和20年(1945年)3月には東京・大阪での大空襲、そして8月に広島と長崎に原爆が投下された後、8月15日に終戦を迎えます。映画館はその1週間後から興行を再開。戦後最初に企画されたのは松竹の音楽映画『そよかぜ』※7で、10月に公開に公開され主題歌「リンゴの唄」と共に大ヒットしました。
 盛岡の中劇でも11月1日から『そよかぜ』の上映をもって興行を再開しています。(「リンゴの唄」の作曲者である万城目正は、無名の青年時代に紀念館で楽士をしていました。)また中劇ではこの興行に際して「中劇週報」も再開しました。

 
 戦後の日本映画界は、占領軍である連合軍総司令部(GHQ)が映画政策を提示し、日本映画は民間情報局(CIE)のもとで管理されていきます。CIEは昭和20年(1945年)11月、戦前の反民主映画を没収したうえで、映画製作における禁止事項を通達し、企画・シナリオ段階での検閲を義務付けます(完成品はさらに別機関での検閲を受けました)。そこでは軍国主義・愛国主義的な映画の禁止はもちろん、封建的忠誠心や仇討や残忍な暴行の肯定も禁じられ、事実上古来の時代劇の製作が不可能になりました。時代劇スターの片岡千恵蔵が剣をピストルに持ち替えて『多羅尾伴内』※8『金田一耕助』※9の探偵映画シリーズに主演したように、時代劇は現代劇や探偵映画に置き換えられました。検閲は1949年に終了しましたが、占領下で日本映画連合会(のちの日本映画製作者連盟)とその内部に自己検閲機関である映画倫理規定管理委員会(略称:映倫)を設置させ、かたちを変えた検閲制度は同年から現在まで映倫に受け継がれています。



=参考文献=
佐藤忠男著「日本映画史増補版2」(岩波書店)
盛内政志著「盛岡映画今昔」(地方公論社)
東宝株式会社発行「東宝75年のあゆみ」
キネマ旬報映画総合研究所編「映画検定 公式テキストブック改訂版」(株式会社キネマ旬報社)

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