第4回 トーキーと映画新時代

 日本における最初の本格的なトーキー映画が公開されたのは昭和4年(1931年)、五所平之助監督の『マダムと女房』(松竹)※1と言われています。(日本におけるトーキー第1作は小山内薫監督の『黎明』とも言われますが、品質と採算の問題から一般公開に至りませんでした。)その後、日活でも伊藤大輔監督の『丹下左膳』からトーキー映画の製作を開始。海外トーキー映画の輸入や国産トーキーの評判によって、トーキーへの転換論は急速に高まっていました。しかし無声映画で活躍していた弁士や伴奏楽士がトーキー化に反発するなどの問題も発生し、トーキー転換は経済的側面からみても日本映画界において一大改革となりました。

 このトーキー化の流れの中で、国産トーキーの開発が奨励され、そこで研究に臨んだひとつが、後に東宝の製作部門の前身となるP.C.L(写真科学研究所:Photo Chemical Laboratory)でした。トーキー装置を完成させたP.C.Lはスタジオと録音技術の提供を主としていましたが、昭和6年(1933年)からは自主製作にも乗り出します。そして従来の映画会社には無かった、俳優・スタッフの契約制の実施やプロデューサー・システム※2を採用しました。そのようなリベラルでモダンな社風のもと、日活から移った山本嘉次郎※3はエノケン映画のスタイルを作りヒットを連発し、松竹で不遇されていた成瀬巳喜男※4は芸術映画的な庶民劇を発表します。初めて新聞広告でスタッフの募集を行い、広く才能を求めたのもP.C.Lといわれ、その公募から集まってきた人材の中には黒澤明※5などがいました。やがてP.C.Lは小林一三※6率いる東京宝塚劇場(東宝)と手を結び、昭和12年(1937年)、東宝映画が誕生。東宝は自由契約によって、数々のスター俳優や監督を引き抜き、一気に大メジャーへと成長していきました。

 この時代、トーキーならではのスターも誕生します。無声映画では歌舞伎や舞台出身の俳優が多かったことに対し、音声付映画の時代では語り芸の人気役者が続々とスクリーンに登場しました。浅草オペラ出身で抜群のボディアクションと、独特のダミ声が特徴だった榎本健一※7は“エノケン”と庶民に親しまれ、トーキー映画においても一躍スターとなります。また、主題歌のヒットが映画のヒットの要件になった時代でもありました。松竹映画『愛染かつら』(昭和11年〈1936年〉)は、その主題歌とともに最大級のヒットをなしたメロドラマの代表作です。


 そうした時代の流れのなかで、昭和10年(1935年)盛岡にもトーキー完備の映画館「中央映画劇場」(以後、中劇)が誕生します。それまで興行師、カツドウ屋が映画館をやっていたのに対して、盛岡はじめ県下の有力な財界人が、大通界隈の発展のための娯楽施設として出資して作った映画館が中劇でした。盛岡の新繁華街である大通にあって、1階500席、2階250席のオール椅子席。さらには冷暖房完備で土足での入場可という、近代設備と新鋭映写機を備えた中劇は、当時の盛岡で大きな人気を呼びました。その後昭和13年(1938年)には中劇の隣に東宝の直営館である「第一映画劇場」が設立。東宝映画の新鮮な魅力によって従来の映画ファンのみならず、新しい観客層も増大していた時代にあって、この二館の劇場は盛岡の興行界に大きな比重を占めるようになります。それは同時に盛岡の近代映画史の幕開けとなりました。



=参考文献=
盛内政志著「盛岡映画今昔」(地方公論社)
東宝株式会社発行「東宝75年のあゆみ」
キネマ旬報映画総合研究所編「映画検定 公式テキストブック改訂版」(株式会社キネマ旬報社)

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