第3回 無声映画の発展

 大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災は、盛岡の映画業界にも大きな影響を与えました。
震災により東京での職を失った弁士や楽士のなかには地方に活躍の場を求める人も大勢いました。盛岡を訪れた映画人の中には、のちに作曲家として多くの映画主題歌を手掛ける万城目正(まんじょうめ ただし)もいました。松竹映画で大ヒットした『愛染かつら』(昭和13年)の主題歌「旅の夜風」、戦後映画の第1号『そよかぜ』(昭和20年)の挿入歌「リンゴの唄」、美空ひばり主演の『悲しき口笛』(昭和24年)の同名主題歌などは万城目正の作曲によるものです。 まだ無名の青年楽士だった万城目氏は、紀念館でチェロ弾きをしており、岩手県公会堂(昭和2年開館)の落成記念式典には円子正氏(紀念館創立者)指揮のオーケストラで、彼がチェロを弾いたという記録もあります。紀念館には万城目氏のほか、犬養一郎、東昇司など、のちに東京で名を成した弁士がたくさんいたそうです。  

 大正13年(1924年)、創立10周年目を迎え、勢いのあった紀念館では、当時の映画俳優のなかでも日本最初の大スターといわれた尾上松之助(おのえ まつのすけ)を盛岡に呼んでいます。会場となった第二紀念館(長田町)では、松之助を見たいと詰め寄せた観客で劇場の内外は人波で溢れました。松之助が挨拶を終えて引き揚げるとき、もっと松之助を見ようとした観客がどよめいた為に二階のバルコニーが落下したというエピソードも残されています。  

 「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助は、日本映画史の草創期に活躍した映画俳優です。松之助が「日本映画の父」といわれる牧野省三に見出されて京都・横田商会(明治36年<1903年>設立)製作の『碁盤忠信』に初出演したのが明治42年(1909年)。その後、日活(大正元年〈1912年〉創立)の映画スターとして英雄豪傑を主人公とした勧善懲悪の物語に多数出演。その人気ぶりは“総理大臣の名前は知らなくても、目玉の松ちゃんは知らぬものがない”と言われるほどであったとか。大正15年(1926年)に亡くなるまでに出演した作品は1,000を超えるとも言われており、“松之助劇”の興隆は同時に、日本映画界が大衆娯楽の頂上へと上り詰めるプロセスであったという見方もあります。
 松之助に次いで人気を博していた俳優に沢村四郎五郎(さわむら しろごろう)がいました。四郎五郎は天然色活動写真株式会社(通称天活 大正3年〈1914年〉創立)のスターで、大正3年(1914年)頃から大正14年(1925年)頃まで活躍しました。彼はすらりとした二枚目で、ラブシーンがあるような作品にも出演しており、一時は松之助と人気を二分したとも言われています。しかし、当時、時代劇ファンの多くが子供で、子供たちにとってラブシーンはいやらしいものだったため、子供たちは松之助の映画の方を好んだという話も残されています。
 盛岡では、日活系の紀念館で松之助を、天活系の内丸座で四郎五郎を、それぞれ上映しており、内丸の子供たちと生姜町の子供たちの間で、松之助が強いか、四郎五郎が強いかで喧嘩になったこともあるとか。いかに両氏が時のスーパーヒーローであったかが伺えるエピソードです。  

 この1920年代(大正中期〜昭和初期)は、日本における無声映画史が目覚ましく発展を遂げた時期にあたります。それまでの活動弁士前提で作られた、日本の伝統演劇の影響が色濃かった日本映画は、外国映画に比べるとまだ発展途上にありました。チャップリンの無声映画などに代表される、第一次世界大戦下(大正3年〈1914年〉〜7年〈1918年〉)に水準を高めた外国映画からの刺激や、大正デモクラシー※1などの社会状況も重なり、日本映画に改革運動が沸き起こります。それが大正7年(1918年)頃にはじまった“純映画運動”です。
 この運動では活動弁士を無くして字幕をつける、女形を無くして女優を起用、物語の内容の現代化、クローズアップやカットバックなど映像固有の表現を重視する、演技・演出の写実化など、歌舞伎・新派演劇の置き換えに過ぎなかった“活動写真”を、“映画”に発展させようとしました。そして国際活映(通称“国活” 大正8年〈1919年〉設立)や大正活映(通称“大活” 大正9年〈1920年〉設立)、松竹(大正9年〈1920年〉設立)、帝国キネマ(大正9年〈1920年〉設立)などの大戦後の好景気を背景に相次いで設立された映画会社がこの運動を後押ししました。なかでも松竹が建てた俳優養成所から栗島すみ子などのスター女優が誕生したことはその後の映画史に大きな影響を与えます。
 当時、庶民に圧倒的な人気を誇っていた活動弁士は無声映画の終わりまで活躍しましたが、この運動を機に、新派が現代劇、旧劇が時代劇、活動写真が映画という語に置き換わり、内容も近代化されます。さらに阪東妻三郎※2市川右太衛門※3嵐寛寿郎※4片岡千恵蔵※5大河内傅次郎※6林長二郎※7らの映画スターが誕生し、『鞍馬天狗』※8『旗本退屈男』※9『丹下左膳』※10といったシリーズ物が多作される時代劇の全盛期へとつながっていきます。

 時を同じくして盛岡での映画興行も発展を続け、盛岡劇場(大正2年〈1913年〉開館)が大正8年(1919年)に最初の洋画専門館としての興行を開始。大正14年(1925年)には新たな映画常設館・帝国館も生姜町(現・肴町付近)の紀念館の角を曲がった場所に誕生。さらに、昭和5年(1930年)には芝居小屋だった藤沢座(紺屋町)が映画常設館に。盛岡で初めて“映画劇場”の名を付けた三笠映画劇場も昭和9年(1934年)に誕生し、盛岡においても戦前の映画全盛期が訪れます。

=参考文献=
盛内政志著「盛岡映画今昔」(地方公論社)
盛内政志著「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」(岩手日報社)
キネマ旬報映画総合研究所編「映画検定 公式テキストブック改訂版」(株式会社キネマ旬報社)
佐藤忠男著「日本映画史T 増補版」(岩波書店)

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