第2回 「映画」の幕開け

 日本に初めて映画が輸入されたのは明治29年(1896年)の事。アメリカのトーマス・エジソン研究所によって開発された「キネトスコープ」が神戸で公開されました。キネトスコープは、大きな箱を上から覗き込み、中に動く映像を見ることが出来る装置。一度に見る事が出来るのは一人というものでした。そして翌年の明治30年(1897年)には、リュミエール兄弟によって開発された、現在の映写機とほぼ同様の仕組みを持つ「シネマトグラフ」がフランスから輸入され、大阪で日本最初の有料上映が行われました。
この上映から程なくして、全国各地での映画上映が始まっていきます。

 この当時の映画は声も音楽もなく、写真が動くだけのもの。「無声映画」、または写真が動くところから「活動写真」とも言われていました。音が無いため、上映の際は活動写真のストーリーに併せて音楽伴奏を付ける楽団と、ストーリー解説や役者に代わって台詞を喋る“弁士”と呼ばれる説明者がスクリーンの脇にいました。
日本古来の舞台芸能は、舞台に演者、そして舞台脇に語り手と演奏楽団がつくという形式が普通です。こうした形式は、能=人形浄瑠璃=歌舞伎と続いています。西洋的な見世物である「活動写真」が日本にすんなり受け入れられた背景には、日本古来の舞台芸能のように、語り手(弁士)と楽団が付加された事が大きかったといわれています。

 活動写真が登場したばかりの頃は、活動写真フィルムと映写機に弁士と楽団がセットになった巡業隊が全国をまわって興行するのが一般的でした。全国には活動写真を専門に上映する施設はなかったため、巡業隊は主に各地の芝居小屋を中心に上映していたそうです。
巡業隊の中での特に有名だったのが日本率先活動写真会。この主宰者で、また一世を風靡した弁士でもある駒田好洋は、万事大げさな説明が特色で、一種の愛嬌があったと言われます。「すこぶる非常…」という文句を頻繁に使っていたので“すこぶる非常大博士”と呼ばれました。映画俳優のスターがまだおらず、弁士の人気が興行を左右していた当時、駒田の人気ぶりは日本で最初の映画スターだったと言われるほどでした。
 そんな駒田の巡業隊が、盛岡の芝居小屋だった藤沢座にしばしば訪れていた記録が残っています。そして、この上映会を主催していたのが、後に盛岡初の活動写真上映専門館(常設館)である「紀念館」を経営する円子正(まるこ ただし)氏が組織した東華音楽団でした。

 円子氏によって盛岡に最初の常設館(映画館)が誕生したのは大正4年(1915年)11月23日の事。生姜町(現在の肴町付近)に建てられました。紀念館は定員700人の二階建ての建物で、内側の壁や柱は光の反射を弱め、目の疲労を減ずる為に鈍色に塗られていました。さらに、映写中でも点燈できる設備であることも、これまでの芝居小屋には無い映画館特有の設備でした。入場方法は、二階は下足を取り、一階は一等席、二等席、普通席に分けられ、座席の位によって椅子またはベンチに座って観賞する仕組みになっていたようです。

 紀念館誕生の翌年の大正5年(1916年)には、内丸にあった芝居小屋の内丸座が常設館に転身。さらに大正10(1921)年には第二紀念館が長田町に開館し、盛岡は映画の街としての発展をスタートさせます。

 三館(紀念館、内丸座、第二紀念館)の建てられた場所は、いずれも当時、盛岡市内で人が多く集う場所でした。
紀念館のあった生姜町は肴町と八幡町の間に位置します。肴町は、“盛岡銀座”と呼ばれる盛岡随一の繁華街。また八幡町は門前町として栄えた飲食と遊興の町でした。八幡町は幡街(ばんがい)芸者※1が活躍し、盛岡芸者発祥の地として知られています。
 内丸座ができた内丸は、官庁街と河北地区の代表的な商店街・本町を結ぶ主要地点でした。本町は政治家や官僚を接待する料亭が繁盛し、本街(ほんがい)芸者※1が活躍していた場所でもあります。
第二紀念館のあった長田町は、藩政時代より盛岡の北の玄関口として栄えた夕顔瀬・材木町に隣接しています。肴町周辺と同様、街道沿いという地域特性もあり、豪商老舗が軒をつらね、人々の生活の中心として栄えました。現在でも商店街として当時の面影を残しています。

 豪商が集い、また商業地域として栄えた河南地区に紀念館。政治の中心であり、また地理的にも街の中心部である内丸地区に内丸座。芸事も盛んに行われていた二つ地域にそれぞれ開設された映画館は、たちまち盛岡の大衆娯楽の中心となっていきました。



※1)幡街芸者と本街芸者 盛岡の花柳界は本街と幡街があり、幡街芸者は八幡町で活躍していた芸者、本街芸者は本町で活躍していた芸者の事。幡街は豪商ら商人でにぎわい、本街は政治家や役人らなどで賑わった。
盛岡芸者は浄瑠璃の名人から指導を受けた芸を継承し、芸の質が高いことで知られており、また本街と幡街が互いに芸事の修練でも競い合っていた。明治・大正の隆盛期には本街、幡街を合わせて100人の芸者衆が活躍したと言われている。

=参考文献=
盛内政志著「盛岡映画今昔」(地方公論社)
盛内政志著「盛岡市制百周年記念 もりおか思い出散歩」(岩手日報社)
キネマ旬報映画総合研究所編「映画検定 公式テキストブック改訂版」(株式会社キネマ旬報社)
ウェブもりおか「盛岡市町名由来記」(盛岡市環境部環境企)
佐藤忠男著「日本映画史T 増補版」(岩波書店)

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