第6回 映画館通りに集う人々

 映画館通りが誕生した頃、市民生活の中心は大通商店街や肴町商店街でした。「昔は今のようにちょっと出かければスーパーがある時代ではなかったのですから、太田、見前、飯岡なんかから買い物をしに盛岡の肴町や大通にやってくるのが当たり前でした。そして来たついでに映画を観る。日詰や沼宮内とか地方にも映画館はありましたが、1〜2年前の映画を上映する二番館、三番館でしたし、また、同じ場所で実演なんかもやっていたから、毎日映画上映をしているわけでもありませんでした。そのため新しい話題の映画を観に盛岡へやってくる人たちもたくさんいました。『青い山脈』※1の封切の時なんか女子高生が日詰から自転車で盛岡にグループで来たこともありましたね。」買い物は大通商店街。新作映画を観るのは映画館通り。おのずと盛岡の中心市街地は人々が集う場所となりました。

 街を歩く人たちは映画館通りをぶらぶらしながら観たい映画をゆっくり選んでいました。「あ、こっちは(中村)錦之助※2だ。こっちは(石原)裕次郎※3だ。どっちにしよう、ってね。散歩をしながら観たい映画を選ぶ、それが映画館通りの一番の魅力だったのです。映画館通りにある映画館は客の奪い合い。反対に映画館通りから離れた国劇とかSY内丸はそういうフリーのお客さんではなく、『007』※4が観たい!『ウエストサイド物語』※5が観たい!というように観たい作品が決まっているお客さんが来る。だから宣伝には力を入れました。今は新聞やフリーペーパー、インターネットで映画情報を見ることが当たり前になっていますが、当時は各映画館が地元新聞社に大きく広告を出していたんです。」その他にも、「配給会社から送られてくる宣伝材料で様々な広告を出しました。値段のするポスターも300枚とか大量に取り寄せて、それを貼るための専門の従業員もいましたし。それから売り場の前を大きな絵看板で飾り立てたり、町中に絵看板を取り付けたり。絵看板と言っても障子4枚分くらいの大きなもの、それを市内5ヶ所くらいに設置したり。お客さんはそういったものを歩きながら見て、ここがおもしろそうだ、と行ってみる。今は情報が行き届いているので、街を歩かなくても上映している劇場と時間が分かる。それも今と昔の大きな違いですね。」また、当時は劇場の支配人は自らが手間暇かけて映画の宣伝を行っていました。「映画のヒットは支配人の宣伝力でしたし、ヒットすると支配人のお手柄と言われた時代ですから、劇場の支配人はサンドイッチマンから宣伝カーから、とにかく何でもやりました。そういう勝負がおもしろいところでもあったんですね。『ローン・レンジャー』※6の時だったかな?岩手大学乗馬部の学生にローン・レンジャーに扮装させて馬に乗って市内を走ってもらったり、『ピクニック』※7という映画の時には車をチャーターして岩山の頂上に数十人でピクニックに行って自家発電機を使って飲み食いしたりもしましたよ。」こんな面白いエピソードも。「三原葉子※8前田通子※9などのセクシー女優が出演する映画では、セミヌードの写真のチラシに“みんな出します”“みんな見せます”なんて入れるんです。そうすると、さほどでもない映画なのにヒットしたり。でも口コミで真相(みんな見せてはくれないこと)が広まってしまうんですけどね。」そんな劇場側と観客とのやりとりも当時ならでは。微笑ましくも楽しいお話ですね。

生活の中心が商店街であり、一番の楽しみが映画だった時代。多くの人が大通商店街を訪れ、映画館通りで映画を楽しんだその背景には、劇場の支配人を中心とした骨の折れる作業と努力、そしてユーモアをも含んだ戦略がありました。


斎藤五郎さん

1930(昭和5)年盛岡市八幡町生まれ。父親が衆楽座、旧盛岡劇場の舞台装置師だった関係で幼少より舞台に慣れ親しむ。独立映画社轄痩f社に入社し支配人として東京、秋田、弘前、盛岡などの映画館に勤務。
岩手県民会館設立メンバーとしてスカウトされ、事業課長、施設課長を勤められた後、盛岡市民文化ホールの初代館長となり、市内の舞台芸術関係者の育成と芸術文化の振興に貢献。現在、社団法人岩手県芸術文化協会副会長を務める。
映画館の支配人の経験を活かし、みちのく国際ミステリー映画祭実行委員会委員として同映画祭を成功に導く。
岩手県教育表彰(学術・文化)、NHK東北ふるさと賞、県・市芸文協表彰、市勢振興功労者などを受賞。
お問合せ/盛岡市商工観光部商工課 岩手県盛岡市内丸12-2 TEL:019-651-4111
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