第5回 戦時中と映画の街

 太平洋戦争は盛岡にも、そして映画業界にも大きな影響を及ぼしました。

斎藤五郎さんは戦争中の記憶として、「盛岡では駅前に焼夷弾が落とされました。焼け野が原になった後、そこは闇市になっています。梁川沿いと開運橋には爆弾が落とされ、戦後になってから爆弾で大きく窪んだ穴を見に行った記憶があります。」と語りました。

映画業界での戦争の一番の影響は、アメリカ映画の輸入が途絶え、国産フィルムは軍需品とされたことです。そのためフィルムには厳しい使用制限がかけられ、映画業界にとって死活問題となりました。
そのような中、昭和17年(1942年)1月、内閣情報局の指示によって日活、新興、大都の三社が企業統合して「大映」ができ、映画製作会社は松竹、東宝、大映の三社体制が成立します。それに伴って日本で製作される映画が減少し、昭和16年(1941年)には年間500本を超える映画を製作していたのに対し、終戦の年の昭和20年(1945年)には僅か26本の製作となっています。

このような時勢の中、昭和17年(1942年)、内閣情報局の構想を中心に社団法人映画配給社が設立され、4月から全国の映画館が紅系と白系に二分されます。つまり、映画の製作会社が三社になり、それまで存在していた複数の映画配給会社が一つになり、そして興行会社(映画館)は紅系白系の二系統になりました。三社の製作する映画を、紅白の二系統に流すので、製作本数は激減しました。さらに、昭和18年(1943年)からは紅白の作品を交代して上映する方法が取られたため、封切られる本数も大幅に減少します。
当然盛岡も例外ではなく、この様式で上映されていました。当時の様子について、斎藤さんに伺いました。「(盛岡も)戦中の映画館は白系、紅系に分かれ、それぞれ同じ映画を市内3〜4館の劇場で回して上映していました。」掛け持ち屋と呼ばれる、フィルムを運ぶことを専門とするスタッフが各劇場におり、次の上映劇場の掛け持ち屋が自転車でフィルムを取りに行く、という方法を取っていたそうです。戦時中の映画館は、上映回数にも規制がかけられるなど厳しい監視のもと、それでも映画を観たいという観客に応えるべく、数少ない配給映画を各館で回しながら上映していたという、当時の苦労が分かります。

また、映画法で定められた厳しい検閲(内容の審査)を通ることのできた映画の多くは、戦争を主題とした映画であったため、戦意高揚を訴える映画や“戦争で死ぬことは名誉なことであり、そのための犠牲が大きければ大きいほどその名誉はいっそう崇高なものになる”という軍国主義を煽る映画も製作されました。
この事について斎藤さんは次のように語りました。「確かに戦中は(映画を製作するにも、公開するにも)規制がありました。この頃の傑作である(黒澤明監督のデビュー作)『姿三四郎』※1もそうですが、確かに男性映画が多かったように思います。しかし、この『姿三四郎』は戦争を煽る映画ではないと、私は思っています。当時、人気があった映画の一つ『愛染かつら』※2もそうですが、戦地に慰問で行った歌手に多くリクエストされた歌は「湖畔の宿」※3「別れのブルース」※4だったのです。これらは恋愛もので、戦争とは全く関係の無い内容です。そういった“なぜ戦中に?”という映画もあったのです。そして、戦時中に大衆に好まれていたのは、実はそういった映画であり音楽でした。本来、戦場では抒情的な音楽は禁じられていましたが、慰問歌手によって「湖畔の宿」などが歌われると、将校はトイレに立ったりして見ないふりをし、隊員はその歌に泣いたと言います。」

斎藤さんのお話にも出ている「別れのブルース」を歌っていた淡谷のり子さんには、次のようなエピソードも残されています。太平洋戦争の末期に各戦地を訪れていた淡谷さん。彼女が、ある航空基地で「別れのブル―ス」を歌っていると、後ろで立って聞いていた若い兵士たちが、歌の途中で、淡谷さんに敬礼しながら次々に去っていきます。事前に、特攻隊員たちが出撃のため、中座するかもしれないという事は聞かされていた淡谷さん。それでも若い兵士が屈託のない天真爛漫な笑顔で淡谷さんに向かって敬礼しながら、死地に赴いて行く姿に、彼女は涙が溢れ、声が詰まって歌えなくなったと言います。そして後にこのことを究極の「別れのブルース」だったと振り返っています。「湖畔の宿」も同様で、曲中の台詞が、死地へ赴く兵士の心情とあいまって、特攻隊、前線兵士の間では人気が高く、愛唱され続けたと言われています。

長引く戦争によって疲弊した国家は、映画業界にもさらなる影響を与え、昭和20年(1945年)6月、製作・配給・興行を一貫して統制する映画公社が設立されます。そして同年8月、ようやく終戦を迎えました。厳しい制約のあった映画業界も、終戦と共に変化を見せます。外国映画はドイツ映画が少し上映されていただけであったのが、戦後はフランス、アメリカ、イギリス、イタリアなどの映画も輸入されるようになりました。盛岡では1950年(昭和25年)の中央ホールを皮切りに、盛岡東映や盛岡松竹などの直営館が盛岡の大通り周辺に開館し、いよいよ「映画館通り」の幕開けへとつながっていきます。

=参考文献=
今村昌平洞他編集 『戦争と日本映画』(岩波書店)
佐藤忠男著『日本映画史2』(岩波書店)






斎藤五郎さん

1930(昭和5)年盛岡市八幡町生まれ。父親が衆楽座、旧盛岡劇場の舞台装置師だった関係で幼少より舞台に慣れ親しむ。独立映画社轄痩f社に入社し支配人として東京、秋田、弘前、盛岡などの映画館に勤務。
岩手県民会館設立メンバーとしてスカウトされ、事業課長、施設課長を勤められた後、盛岡市民文化ホールの初代館長となり、市内の舞台芸術関係者の育成と芸術文化の振興に貢献。現在、社団法人岩手県芸術文化協会副会長を務める。
映画館の支配人の経験を活かし、みちのく国際ミステリー映画祭実行委員会委員として同映画祭を成功に導く。
岩手県教育表彰(学術・文化)、NHK東北ふるさと賞、県・市芸文協表彰、市勢振興功労者などを受賞。
お問合せ/盛岡市商工観光部商工課 岩手県盛岡市内丸12-2 TEL:019-651-4111
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