第4回 斎藤五郎さんと映画館

 斎藤五郎さんが映画館に勤めておられたのは、昭和26年から48年の22年間。まさに映画黄金期と言われていた時代です。お勤めになられた興行会社は株式会社国映社。盛岡では国民劇場を経営していた会社です。

 斎藤さんが映画の道に進まれたのは旧盛岡劇場の大道具師で興行師でもあったお父様の影響が大きかったそうです。「最初は父親の仕事、つまり堅気じゃない仕事を嫌だと思っていました。」と斎藤さんは言います。「八幡町の芸者衆が毎日のように訪ねて来るような家だったので、ホワイトカラーの仕事に憧れていました。」しかし、父親の背中を見て育った斎藤さんは、自然と興行師としての資質を身につけていました。「蛙の子は蛙ではないですが、23〜24歳くらいの頃、就職難で定職に就いていなかった私に、『興行が分かっている五郎君を是非』と映画館の支配人が声をかけてくれました。それがきっかけでした。」その後、株式会社国映社に入社し、盛岡の青山町にあった青葉劇場や水沢市の洋画館で最初から支配人をやり、昭和30年から秋田市、能代市、弘前市をまわり、昭和38年から昭和48年まで盛岡の国民劇場で支配人をなされ、その後岩手県民会館の建設と同時にスカウトされています。

 斎藤さんが盛岡でお勤めになられた国民劇場は、洋画専門の封切館。メトロ※1ワーナー※2東和映画※3などを上映していました。同じ頃盛岡には、盛岡東映(東映※4)SY内丸(松竹洋画※5)中央ホール(大映※6)中劇(日活※7)松竹(松竹※8)第一映画劇場(東宝※9)などがあり、当時の大手配給会社の直営館が全てあったそうです。その他にも、南東映や夕顔瀬東映などの二番館、そして銀映座などの三番館もあり、当時人口20万ぐらいの街に対して、たくさんの映画館があったと言えます。

 続いて、映画館の支配人というお仕事について伺いました。斎藤さんがおっしゃるには、“映画は観客の動員数”なのだそうです。そのためには宣伝が大事。現在のようにインターネットやテレビ、雑誌などから自動的に情報が入ってくる時代とは違い、当時の情報源は全て手作業によるものでした。映画館の支配人は作品の評判を高めるために、さまざまな工夫をされたと言います。宣伝カーで映画をPRしながら走ったり、小岩井農場からセスナを飛ばしてチラシを撒いたこともあったとか。当時映画は二本立てだったので、どんな番組を組むか、チラシのコピーはどうするか、そういったこと総てが支配人の仕事だったそうです。自らサンドイッチマンをされたこともあるそうで、「宣伝は工夫次第で千差万別。お客さんが来る、来ないは、全て支配人の腕の見せ所。そこが面白いんです。それが面白いと思うのが興行師なんですね。」と斎藤さんは笑顔で語りました。

 当時の娯楽の中心であり、さらに支配人の尽力によって人々を魅了していた映画館。きっと映画館で働くことを夢見る若者も多かったのではないでしょうか。そこで、映画館で働くにはどのような手段があったのかを伺ってみました。「直営館の支配人は本社から来ます。地元の映画館だと、大抵は地元の人が勤めていましたね。経理から入って支配人になる人が多かったように思いますが、映写技師は工業(高校)出身者が多かったようです。いずれ、採用試験というより、知り合いからの紹介、つまりコネが多かったように思います。」…やはり狭き門だったようですね。

 続いて、当時の映画館の一日を伺いました。
「その頃の映画館は朝10時に開館しました。そのため9時頃に出勤して、毎日テスト試写を行います。開館10分前頃から外にチャイムを流します。」今ではもう聞くことは無くなってしまいましたが、飲食店が暖簾を出すように、映画館も開館・営業中をお知らせするために、外にレコード(BGM)を流したりしていました。中には外まで上映作品の音を流す映画館もあり、道行く人たちがそれを聞いて「面白そうだ、寄ってみようかな」という気持ちになるような演出がされていました。ここで斎藤さんから当時の裏話が。「(映画館の外には上映中であるかのような雰囲気を出しながらも)お客さんが1人も入らないと映さないこともありました。当時は入れ替え制ではなかったので、途中から来るお客さんがいると、時間を見て、おおよそこの辺かな、というシーンから上映する。そんな事も昔はありました。映写技師の離れ技ですね(笑)」と。何ごとにおいても大らかだった時代の雰囲気が伝わってくるエピソードです。さて、話は一日の流れに戻り、「早番は5時頃帰宅し、遅番と交代。終映後、夜10時頃に掃除をして帰ります。当時は自動的に上るイスではなかったので、従業員や表方(おもてかた=ポスターや看板を設置する、今でいう広報マン)が一緒に掃除をし、忘れ物の確認をしたりしてから帰ります。ときどき、酔っ払いなどのお客さんのトラブルがあると支配人が対応したし、お金の管理や人的管理も支配人の大事な仕事でした。」と、続けました。「キャラメルの空箱を集める従業員もいたりしてね。」と、当時の楽しいエピソードも。ここで昭和のキャラメル事情をご紹介します。ノベルティ(景品)をつけてキャラメルを販売するというのは、戦前から江崎グリコが始めました。昭和20年代キャラメルは大変な人気だったので、各メーカーはカードを封入して、景品や、“もう一個あたり”のプロモーションを行っていたようです。映画館の売店でも当然キャラメルは販売されていたので、お掃除を担当していた従業員の方は、キャラメルの箱をたくさん集めていたのでしょうね。

 実は、盛岡で映画の試写会を最初にやったのは国劇ですという、斎藤さん。斎藤さんは自らを「最後の興行師」とおっしゃいます。「昔は地方では、映画館のオーナーとか支配人は世間的にチヤホヤされる存在だったようです。東京などの撮影所で映画会社のパーティがあると、当時の映画スターが映画館のオーナーや支配人に酒をついで歩いたものです。今はそんなことはありませんけどね(笑)。」と語る斎藤さん。「娯楽がなかった時代だから、皆で映画を観て。結果文化意識が育てられた時代だったのです。」と、当時を振り返りました。

斎藤五郎さん

1930(昭和5)年盛岡市八幡町生まれ。父親が衆楽座、旧盛岡劇場の舞台装置師だった関係で幼少より舞台に慣れ親しむ。独立映画社轄痩f社に入社し支配人として東京、秋田、弘前、盛岡などの映画館に勤務。
岩手県民会館設立メンバーとしてスカウトされ、事業課長、施設課長を勤められた後、盛岡市民文化ホールの初代館長となり、市内の舞台芸術関係者の育成と芸術文化の振興に貢献。現在、社団法人岩手県芸術文化協会副会長を務める。
映画館の支配人の経験を活かし、みちのく国際ミステリー映画祭実行委員会委員として同映画祭を成功に導く。
岩手県教育表彰(学術・文化)、NHK東北ふるさと賞、県・市芸文協表彰、市勢振興功労者などを受賞。
お問合せ/盛岡市商工観光部商工課 岩手県盛岡市内丸12-2 TEL:019-651-4111
Copyright Cinecitta@morioka All Rights Reserved.