第2回 盛岡の映画文化の成り立ち

 映画館通りには市内の映画館が集中して建ち並んでいますが、実は地方都市でこれだけ1つの通りに映画館を持つ都市は珍しいそうです。盛岡でこれほど映画が人々に親しまれた背景はなんだったのでしょう。今回は盛岡における映画文化の成り立ちについて伺いました。


内丸座(年代不明)
 「盛岡はもともと庶民芸能が盛んな土地でした。藩政時代の昔から南部のお殿様は芸事がお好きな方が多く、南部利敬公のように盛岡の地神楽に江戸里神楽の要 素を取り入れて多賀神楽を作ったり、江戸時代のはやり唄の常盤津の作詞をした殿様、七軒丁というおかかえの芸能集団を結成した殿様などと、南部(陸奥)は 田舎だったので、江戸や京都の文化を積極的に取り入れようという動きがありました。また盛岡は馬や材木、木炭の集散地だったので、全国から集まった商人な どの接待をする芸者もたくさんいて、芸事が盛んだったのです。」藩政時代に築かれた庶民芸能は明治になってからも八幡町と本町の芸者衆によって続けられま した。「最初に劇場ができたのも、芸者の町である八幡町ですよね。内丸座という劇場も本町の芸者の町が背景にあります。芸事の盛んだったところに劇場が 建ったのですね。」

 「昔は1つの町内に1つの寄席演芸場があったと言われる盛岡です。特に市内中心部を流れる中津川を挟んで南側の河南地区は演芸娯楽が集中していました。」 昔から盛岡では大衆芸能として芝居、義太夫、端唄、小唄、俗謡などが寄席演芸場で演じられていました。大正になると活動写真が登場し、活動弁士が脚光を浴 びるようになります。
盛岡劇場(大正8年撮影)

 大正2年に盛岡劇場が完成し、歌舞伎、新派、新劇、歌劇などの名優たちが毎年のように興行に訪れ、芸能の中心となります。その一方で、明治から寄席や芝居 が公演されていた内丸座、藤沢座といった既存の劇場では活動写真(映画)も上映されるようになり、大正4年には県内初の活動写真常設館「紀念館」が誕生し ます。映画も無声映画からトーキーへと進歩し、寄席から劇場、そして映画館へと移り変わっていきます。

 「映画館通りの映画館は新市街地の開発を目的に造られたので、発展の仕方はおのずと違うんです。ただ、もともと芸事の目が肥えていて、観物、聞き物が好き な土壌に映画館ができた。また、当時の映画は時代劇が盛んだったから、映画の中の日本髪で着物姿の女優たちの立ち居、振る舞いが、踊りなんかもやっている 芸者衆や、映画を観る和服時代の女性には勉強にもなる情報、ということもあったと思います。」

 「文化薫る街」と形容されるように、盛岡は古くから芸能文化が盛んな街でした。娯楽が少なかったこともあり、積極的に文化的なものを取り入れ、盛岡の芸能 文化として形成されました。 現在、市内で上映される映画は大作や話題作ばかりではなく、地方では珍しいような単館系の作品も上映されています。昨年の映画祭で映画評論家の寺脇研さん から、盛岡で上映されている作品のラインアップに対して称賛の言葉をいただきましたが、それは選ぶ人も観る人も、芸術文化に目が肥えている、という事。そ ういった文化に触れ、慣れ親しむことができる環境で育ってきた、というのはとても贅沢な事ではないでしょうか。映画館通りや盛岡の映画文化、そして芸能文 化は先人たちからの贈り物であり、子供たちへ、そして未来へつなげていきたい宝物です。


斎藤五郎さん

1930(昭和5)年盛岡市八幡町生まれ。父親が衆楽座、旧盛岡劇場の舞台装置師だった関係で幼少より舞台に慣れ親しむ。独立映画社轄痩f社に入社し支配人として東京、秋田、弘前、盛岡などの映画館に勤務。
岩手県民会館設立メンバーとしてスカウトされ、事業課長、施設課長を勤められた後、盛岡市民文化ホールの初代館長となり、市内の舞台芸術関係者の育成と芸術文化の振興に貢献。現在、社団法人岩手県芸術文化協会副会長を務める。
映画館の支配人の経験を活かし、みちのく国際ミステリー映画祭実行委員会委員として同映画祭を成功に導く。
岩手県教育表彰(学術・文化)、NHK東北ふるさと賞、県・市芸文協表彰、市勢振興功労者などを受賞。
お問合せ/盛岡市商工観光部商工課 岩手県盛岡市内丸12-2 TEL:019-651-4111
Copyright Cinecitta@morioka All Rights Reserved.